江戸時代中期の武士の生活見に行こう!旧足守藩侍屋敷遺構の魅力とは?

旧足守藩侍屋敷遺構は、江戸時代に備中国で2万5千石を領有していた足守藩の家老を務めた杉原氏の邸宅です。旧足守藩侍屋敷遺構は、完全な姿で残っていて県で唯一の武家屋敷で貴重なものです。屋根が茅葺の寄棟造の平屋で、家老屋敷としての威厳のある堂々とした屋敷であり、格式ある屋敷の構造になっています。岡山の足守地区を代表する屋敷で、当時の生活がわかる建物として、貴重なものです。そんな足守藩侍屋敷遺構の魅力と周辺の観光スポットについて紹介します。

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このまとめ記事の目次

旧足守藩侍屋敷遺構とは

旧足守藩侍屋敷遺構は、足守藩の家老杉原氏の邸宅で、江戸時代中期の武士の書院造です。旧足守藩侍屋敷遺構の母屋は、桁行24.5m、梁間8.99mの長い建物で、屋根は茅葺の寄棟造で総廂の付く平屋建てです。

母屋の正面には唐破風の屋根を構えた玄関を設け、家老屋敷としての威厳を備えており、伝統的な書院造の構造を持ち、今日の和風住宅の原型とされています。庭は池泉を主にした遠州流の小庭園で、外側の土塀には藩主来訪時に使用する御成門を設けています。

また、旧足守藩侍屋敷遺構は、歴史的構造物として貴重なものとして、岡山を代表する文化財として岡山県の重要文化財に指定されています。

足守藩主木下家

足守藩主木下家は、古くは杉原家と名乗っており、織田信長の家臣でした。杉原家定の妹「ねね」が当時の木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁いだことにより、木下の性を名乗ることが許されましたが、木下家定死後、一時天領地となりましたが、大阪夏の陣以後木下俊房が後遠を継ぎ、足守藩二万五千石の歴史は、明治時代まで13代にわたり、足守の陣屋町を守りました。

足守には足守藩最後の藩主木下利玄は、明治時代に活躍した文人で、現在でも生家が残っています。足守藩主木下家は、今に残る足守陣屋町の整備に尽力を尽くし、吉備高原の要塞と、足守川の清流に守られて今もこの町に生き続けています。足守藩の木下家が豊臣秀吉と血の繋がりのない中、これほど長く続いたことには、興味深いです。

旧足守藩侍屋敷遺構の母屋

旧足守藩侍屋敷遺構の母屋は、桁行24.5m、梁間8.99mの規模であり、唐破風の屋根を構えた玄関があります。玄関の式台を上がると、上床つきの8畳の式台の間があり、入って右手側が奥に大床の付いた二の間の13畳の広間となっており、二の間の右(上)手に床と付書院を設けた8畳の座敷(一の間)に続きます。

一の間の床脇の外はすぐ縁側で、付書院には花頭窓を開いています。一の間と二の間は、境の鴨居の上には珍しい好図組欄間を入れ、天井が高くすべて竿縁天井であり、外側に縁をめぐらせていて、質素なうちに格式のある武家造りの建構えになっています。

式台の間・二の間・一の間の3間が表向き(公式用)の書院です。式台の間の奥には、武家屋敷には必ず設けてある2畳の仏間があり、自刃の場となるこの部屋は柱が逆目となっています。

勝手方(私生活用)の奥向きには、式台の間の入って左手に6畳の玄関の間を設け、奥に4畳の合いの間、この奥に炉のある6畳の茶の間があり、その左手が板敷きの台所と土間となっています。二の間の奥は、左手に3畳の脇部屋を伴う7.5畳で高床の当主の居間となっています。

また、池泉を主とした遠州流の小庭園があり、格式ある建物であることがわかります。
歴史的に価値のある建物であることから、岡山県指定の重要文化財になっています。

旧足守藩侍屋敷遺構周辺の観光スポット① 近水園

近水園は足守藩主木下家の庭園で、約5500平方メートルの敷地に池が設けられ、カエデや桜がその周りを囲む足守藩主木下家ゆかりの小堀遠州流の池泉回遊式庭園として有名です。

足守6代藩主が京都御所の残材を持ち帰って作ったとされています。園地にある池は足守川から水を引き入れ、鶴島と亀島の二島が配置されていて、園内には数奇屋造りである吟風閣があります。樹齢数百年のカエデの古木がたたずんでいて、紅葉時期である11月中旬には美しい光景をみることができます。

足守藩主木下家が作った代表する大名庭園で、岡山県下では岡山の後楽園、津山の衆楽園と並ぶ大名庭園の1つで、岡山を代表する観光スポットです。紅葉の美しい近水園に岡山を訪れてみてはどうでしょうか?足守藩の歴史から足守藩主であった木下家について学ぶことができるのではと思います。

基本情報

【所在地】岡山市北区足守803
【電話番号】086-295-0981
【アクセス】岡山駅から中鉄バス「大井・足守行き」足守郵便局前下車徒歩5分

旧足守藩侍屋敷遺構周辺の観光スポット② 足守プラザ

足守プラザは、岡山市北部の足守地区にあります。足守プラザは足守地区の江戸時代の伝統的な家屋の街並みにあります。足守プラザは、格子窓に漆喰の壁、瓦屋根の姿で足守の街並みに溶け込んでいます。そんな足守プラザは、足守の情報の発信地であり、文化交流の場として、利用されています。

また、レンタサイクルなどあり、足守の街並み散策に便利な場所です。足守プラザは、足守を訪れて人々の足守を観光する際の出発地になります。足守プラザにて様々な情報を仕入れてから、足守の散策に出かけることで、より足守のことが理解でできるのではないでしょうか。

足守を訪れる際は、足守プラザを訪れてから、足守の観光スポットに出かけられることをおすすめします。

基本情報

【所在地】岡山市北区足守979
【電話番号】086-295-0001
【アクセス】岡山駅から中鉄バス足守・大井行き「足守プラザ前」下車すぐ

足守プラザ

岡山県岡山市北区足守979

3.00 013

旧足守藩侍屋敷遺構周辺の観光スポット③ 木下利玄生家

木下利玄は、足守藩の最後の藩主を父に持つ歌人で、明治時代から昭和の時代にかけて、短歌の革新的な運動に力を注ぎ、白樺派の中心作家として活躍し、ついには口語、俗語なども大胆に取り入れた写実的で平易な「利玄調」の歌風を完成し、歌壇に新風を巻き起こすとともに、明治大正の文学史に大きな功績を残した人です。木下利玄は、大正14年に40歳で鎌倉で死去し、墓は足守の大光寺にあります。

木下利玄生家は、そんな木下利玄の生まれた家です。
木下利玄生家の荒壁の長屋門風の建物は、藩政期から続く木下家の残務整理のために大正時代に建てられたもので、生家の土蔵からは、秀吉、秀次の関白叙任状や秀吉直筆の古文書など豊臣氏に関連する資料が発見され、注目されました。歴史的に偉大な人の生まれた家であったことと、豊臣氏に関する資料が発見されたことで、岡山県の指定史跡に指定されています。

基本情報

【所在地】岡山市北区足守801
【アクセス】岡山駅から中鉄バス 足守・大井方面行き「足守郵便局前」下車徒歩5分

旧足守藩侍屋敷遺構へのアクセス

※イメージ画像

※イメージ画像

いかがだったでしょうか?旧足守藩侍屋敷遺構を紹介させていただきました。旧足守藩侍屋敷遺構は、江戸時代中期の生活ぶりがわかる貴重な施設です。そんな旧足守藩侍屋敷遺構は、足守の街並みに溶け込んでおり、足守を散策するのには、旧足守藩侍屋敷遺構は欠かせない施設です。江戸時代の当時の様子を感じに足守の訪れてみてはどうでしょうか?

基本情報

【所在地】岡山市北区足守752
【電話番号】 086-295-0983
【アクセス】JR吉備線 岡山駅発 足守駅下車徒歩4km

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